| レオクラブ・プログラムの目的とモットー
アルファ/オメガ・レオクラブ
レオ地区及びレオ複合地区の形成
口火を切ったのはグレーバー監督
45年前にレオクラブの口火を切ったのはジム・グレーバー監督です。それは野球が取り持つ縁でした。
当時グラバー氏はアメリカペンシルベニア州にあるアビントン高校野球チームのコーチでした。そしてまた、同州グレンサイド・ライオンズクラブの活動的なメンバーでもありました。
当時(1957年)、アメリカ・ペンシルベニア州アビントン高校野球部のグレーバー監督は、グレンサイド・ライオンズクラブの熱心な会員でもありました。
グレーバーは同じクラブの会員ウィリアム・アーンストと、高校生の奉仕クラブを立ち上げないかと相談していました。1976年10月7日付『イブニング・ブレティン』の記事の中で、アーンストは「キワーニスクラブには『キークラブ』があり、ロータリークラブには『ホイールクラブ』(後にローターアクトクラブと改称)がある」というグレーバーの言葉を回述しています。
写真キャプション:笑顔いっぱいのブラジル・ウルグラヤナ
・ レオクラブ会員たち
そこで、二人は仲間のライオンズに支援を求めました。グレンサイド・ライオンズクラブの会員は、青少年の組織を持つのは良いアイデアだとこぞって賛成しました。力を得たグレーバーとアーンストは早速動き始めました。
アーンストによると、「まず、中心になるグループが必要だった。そこで、ジムの息子さんに野球部のメンバー全員を最初の会合に連れてこさせた」とのことです。野球部員26人のほかに2年生、3年生、最上級生が9人集まりました。
クラブは総勢35人で結成されました。1957年12月5日に、グレンサイド・ライオンズクラブはアビントン・ハイスクール・レオクラブにチャーターを授与しました。
世界で最初のレオクラブとして、このグループはLeadership(リーダーシップ)、Equality(対等)、Opportunity(機会)の頭文字を取ってLEO(レオ)という略称を作りました(Equalityは後にExperience<経験>に変更されました)。そして、このグループはレオクラブのクラブカラーとして高校のスクールカラーでもあった栗色と金色を選びました。
豊かに実ったアイデア
1963年まではレオクラブはアビントン高校にしかありませんでしたが、この年にペンシルベニア州のタマクアエリア高校でレオクラブが結成され、それからしばらくして当時のフィラデルフィア・ライオンズクラブがニューヨークにレオクラブを設立しました。1964年の時点で、レオクラブはペンシルベニア州で27クラブ、ニューヨーク州で1クラブとなりました。
青少年の奉仕クラブはその後も拡大を続けました。1967年10月に、ライオンズクラブの国際理事会は協会の正式プログラムとして「レオクラブ・プログラム」を採択しました。男女を問わず会員になれる「レオクラブ・プログラム」の目標は、当時も今も下記の通りです。
「・・・世界の青少年に対して、個人的かつ集団的に地域、国内及び国際的な地域社会の責任ある構成員として成長し貢献する機会を与える」
1968年になって、新たに結成されたレオクラブが国際本部に対してクラブの結成確認の申請書を送り始めました。アビントン・ハイスクール・レオクラブの結成確認を求める申請書は1969年10月17日に本部に到着しました。この日をもって、世界中のレオクラブが国際的なレオクラブ・プログラムの一環として正式に認知されました。アビントン・ハイスクール・レオクラブの会長にはジョン・ヘバート君が就任しました。
現在、レオクラブ・プログラムは更に強力になっています。このプログラムの基礎は依然として地域奉仕です。ライオンズクラブの場合と同様に、レオクラブの会員は隣人たちに奉仕し、前向きな成果が見えてくるのに喜びを感じています。
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